電話越しだけど、まさに狂喜乱舞。
でも、その心境はわかる。
それと同時に追加の原稿が届いてポチポチと打ってますが、母の願いは、その本を姉弟に渡す事。
今まで書いた新聞投稿などに、昔の思い出なんかを新たに書き足しているから。
で、その原稿の中に、母の母(私から見て母方の祖母)の新聞投稿の記事があったので、黄色く変色してすり切れていたけど、なんとか解読しました。
いくつかあるなかで、ひとつ。
こんな世の中だから。今は亡きおばあちゃんが見てきた事。
「行ってきます」と元気に出て行った若者が港を出るとすぐ敵の潜水艦にやられ、泳いできたという。
当時、主人は日本郵便会社の外国航路の船員。やっと手に入れたマイホームは伊勢佐木町に近い花街の待合だった。家が大きかったため、私は船員専用の下宿と間貸しを始めた。船がドック入りの間は二階の広間は若者でにぎわった。
私は五人の子供に恵まれ、平和で楽しかった。しかし、あの忌まわしい戦争のためにすべてが大きく変わった。主人の船は撤用船に変わり、二度と帰らぬ若者もいた。彼らの荷物置き場には引き取り手のいない荷物がほこりにまみれていた。
戦争が激しくなるにつれ、二人の子供を田舎に疎開させ、家の中は風がびゅうびゅうと吹き抜けるような寂しさだった。隣の空地と床下に防空ごうを掘り、警報のたびに避難した。歌も踊りも軍事調となり、それもやがて学徒動員の宿泊所になってしまった。
外では何を売っているのか分からない行列に人々は先を争って駆けて行き、何回も列に加わった。ますます空襲は激しくなり、ついに私たちも疎開せざるを得なくなった。平和になってからの再会を約し別れたが。
いつも私の家を常宿としておられたボースンのKさん、また他のみなさんはどうしておられるだろう。懐かしい第二の故郷・横浜のことをしきりに思い出す今日このごろである。