昨日は、阪神淡路大震災から22年目の日でしたね。
毎年、この日になると当日の事を思い出して、胸の奥が重くなります。
それでも、年々おぼろげになっていく記憶。
なので、一度その日のことを朝から書いてみようと思います。
当時は、まだ独身で、実家に父母と妹の4人で住んでました。
早朝。まだ布団の中に入っていたところ、遠くからカタカタカタカタカタ……と、音が鳴っているような状態に。
あー、地震だな。
そう思った直後、地面から突き上げるような地響きと、かき回されるような振り回されるような揺れが襲い掛かりました。
「わっ!」とか「きゃっ!」とか言っていたかもしれませんが、もう覚えてないです。
妹と同じ部屋だったんですが、物が多くて、上からスピーカーや色々な物が落ちてきたので、布団を頭まで被って、とにかく揺れが収まるのを待ってました。
長かったです。
隣で寝ていた妹は大丈夫だったので隣の父母の部屋へ行き、とりあえず当時半身不随だった父を2階の家具が置いていない壁まで誘導しました。
父母の部屋も荷物が多かったので危なかったんですよ。
その内に、外がざわざわとしてきました。
近所の人たちが出てきたんだと思います。
テレビ……は、ついたのかなぁ。覚えていないです。
ガスは止まってました。
ついでに、遠恋中の彼氏に「大きな地震があったけど、みんな大丈夫」と電話連絡を入れてます。
実は、本来ならば、前日を含む三連休に、彼氏のところに行くはずだったんです。
そういう話になっていたのだけれど、理由は忘れましたが数日前に急遽中止にしたんです。
もしも行っていたならば、いつも通り大阪に向かっている夜行バスの中で、三宮のバスターミナルのあたりにいたことになります。
そうこうしている間に、出社時間(証券会社のOLでしたから)。
「とりあえず行ってくる」と家を出たものの、バス通りは正月の早朝のような静けさ。
普段ならば、渋滞一歩手前状態で、バスもバンバン走っているような道がです。
全然バスが来ない。もしかしたら地下鉄も止まっているかもしれない。
今のようにスマホなんてなかった時代ですから、情報がどこにもなく、走ってきたタクシーを止めました。
「北浜まで」
と乗ったタクシー中、何度も余震が続いていました。
勤めていた会社は、ビルの地下、1、2階と8階の一部屋を間借りしていて、1階2階が吹き抜けの店舗、2階の一部が更衣室やら会議室やらの小さい部屋。8階が大阪証券部(私は証券部所属)。
ビルの前でタクシーを止めてもらい、でも、店舗のシャッターは下りたまま。ビル自体のロビーに通じる玄関も同じ。
制服に着替えることができないので、ビルの裏口に回り、警備室で状況を聞きつつ証券部の鍵を借りて「階段」で8階まで昇りました。
ドアを開けた先は、足の踏み場がないくらい散乱した部屋。30台以上の機械が落ちてなかったのが幸い。
いつも通り、全ての電源を入れ(入れれたってことは、電気は来てたんですね)、部屋の中を片付け、でも誰も来ないし、連絡もなし。
大阪証券取引所で取引ができるのかどうかもわからず一人で椅子に座って待っていたら、東京の国際部からの直通電話がなりました(国際部担当だったんです)
「そっち大丈夫?!大証、どうなってるの?!」
そんな感じだったと思います。
大きな地震があったこと(テレビもラジオも聞いてないので、神戸があのような状態になっていることを知りませんでした)。今は、なにもわからないこと。部長を含め誰も来ないこと。システムがなにも動いてないこと。
そういうことを伝えている間に前場が始まりました。
……が、変わりなし。
最終的に、その日は大証の取引は中止でした。
少しして先輩(男性)がタクシーで駆けつけ、情報交換をして電車が動いていないことを知り、その間に何本か支店からの問い合わせ電話があり、
「大証、どうなってる?!」
「わかりません!」
とやり取りしている側で、先輩が部内の人間の家に電話をかけてました。
でも、繋がりません。
NTT回線が使えなかったんです。
支店からの電話は、会社内の「内線扱い」でしたので繋がっていたんです。
そのうちに、一人一人とタクシーや自家用車、バイクで集まり出し、大阪に単身赴任で来ていて3連休に家に帰っていた人が「新幹線も山陽本線も使えない。電話も大阪に繋がらないから伝えてくれ」と、その地域の支店を通じて連絡が入り、部長が昼過ぎに車で到着して(和歌山に近いところに住んでいて、高速が使えなくて地道を走ってきたらしい)、安否がわからないのは神戸在住のAさん。
そのころには、神戸が大変なことになっているらしいことだけは聞いていました。
一人、バイクで来ていたBさんが、
「水を持って、様子を見てきますわ」
とミネラルウォーターを荷台に積んで神戸に出発。
大証から取引中止の連絡があったかどうかは覚えてませんが、システムが動いていなかったのでなにもすることがなく、Bさんの帰りを待ちながら書類整理をしてました。
何度も余震を感じながら。
4~5時間くらいだったでしょうか。Bさんが帰ってきました。
「Aさん、無事でした。家の方も、なんとか。でも、川の向こうは壊滅状態です」
会社を出たのが何時なのかは覚えていません。
でも、地下鉄とバスを乗り継いで帰ったのは覚えています。
家に帰り、初めてテレビを見て状況を知りました。
見覚えのある景色が一変していて呆然となりました。
えぇ、呆然ですね。あの中にいたかもしれないということも含めて。
私の「あの日」は、こんな一日でした。