ポツリポツリと頬に落ちた雨粒が、どしゃぶりに変化するのは一瞬だった。
すぐ側にあった大きな木の下に避難し、分厚い雲に覆われた空を恨みがましく見上げる。
「お腹は空いてるし、雨は降ってくるし、サイアク」
久しぶりに目覚め、外に出たとたん、これだ。こんな天気の中、出歩く人間がいないだろうことは安心だけど。
雨が視界を塞ぎ、光がまったくない暗闇に包まれている森。しかし、夜しか出歩けないぼくの目には隅々まで見えている。
視界の端に、古びた建物が見えた。
「………美味しそうな匂いがする」
それも、極上の。
ぼくの喉がゴクリと鳴る。
どれくらいぶりだろう、こんなにうっとりするような獲物は。
「どこの誰だか知らないけれど、これを見逃す手はないよね」
誰ともなしに呟いて、足取り軽く建物に近づいた。
窓からそっと中を覗くと、ベッドに横たわっている人間が見える。でも、その大きさから想像するに「男?」
てっきり瑞々しい新鮮な女だと思っていたのに。
でも、今まで経験したことがない美味しそうな芳香に、迷うことなく窓を開けた。
聞こえてくる寝息が深い。仮に起きても、眠らせればいいけれど。
枕元に寄り、男の顔を覗き込んだ。
今まで見たこともないくらい綺麗な男だな。端正な顔立ちは作り物のようにも見える。そっと喉元に顔を寄せると、くらくらするような濃厚な香りが一層際立った。
お仲間にはしないから、安心してね。2、3日、起き上がれなくなるかもしれないけれど。
ではでは、美味しくいただきま………す?
「へぇ。今時の吸血鬼って、男が男を襲うんだな」
「……っ」
視界がぐるりと回り、気づけばベッドに押さえつけられ、今まで寝ていたはずの男が、ぼくを真上から面白そうに見下ろしていた。
なんで?人間にぼくの気配がわかるはずないのに!
闇の中で浮かび上がる男の上半身は、無駄のない筋肉に覆われていた。
彫刻のように整った肢体をして一見人形のようにも見えるけれど、興味津々に見詰める目とぼくを抑え込む体温が、血の通った人間なんだと再認識させられる。
「黒いマントじゃないのか」
「そんな、いかにもな恰好なわけないだろ」
呆れながら答えると「それもそうか」とあっさり納得し、なぜか枕元のスタンドのスイッチを入れた。
あ、髪も瞳も薄茶色なんだ。この男に、よく似合ってる。
ぼんやり見ていると、なぜだか心臓がドキドキしてきた。
この男の視線の先にぼくがいることが、嬉しいような、嬉しくないような。
というか、この状況、ヤバくないか?このまま心臓に杭を打たれたら、ぼくは消えてしまう。そして、ぼくは、今ものすごくお腹が空いてるんだ。
仕方ないなぁ。強制的に眠らせて………。
「ふぅん。今、目が赤く光ったけど、何をした?」
「………うそ」
普通の人間なら一瞬で寝るはずなのに。ぼくと同じ側……いや、やっぱり人間の匂いが……ちょっと待てよ。効かないってことは、この状況から逃げられないってことじゃないか?
たらりとこめかみを冷汗が流れるような気がした。
自慢じゃないけど、腕力に全然自信はない。押さえつけている男の腕はビクとも動きそうにもない。
どうしよう。なにか動かせるものないか?棍棒でもバットでも、この男の頭を殴れるよう………うん?
「んーっ!んーんーっ!」
視界が男の顔でいっぱいになったと思ったら、口唇を塞がれて硬直した。
もしかして、これは、人間の世界で言うキス?!
「な、なにすんだよ?!」
「あ、もしかして初めてだった?ラッキー」
なにが、ラッキーだ?!突然すぎて噛みつけなかったのが、とんでもなく悔しい!
……流れ込んできた唾液が甘くて美味しくて、夢中になりかけたのに自己嫌悪。
「オレを襲うつもりだったんだろ?こうやって……」
「ひゃっ!」
耳!耳、舐められた!
「ちがっちがうちがうっ!」
「じゃあ、こうか?」
「んっ」
耳を甘噛みした口唇を首にずらし、かりりと歯を立てる。
そうだけど、噛みつくつもりだったけど、
「ちょっと、待って!」
「なんだよ?」
不服そうに顔を上げた男に、ぷるぷると首を横に振った。
「なにか違う」
「なにが?」
「なにがって、なにもかも!」
本当なら、今頃この男の首に齧りついて、新鮮な生き血を飲んでいるはずなのに、なんでぼくが齧られなきゃいけないんだ?
「オレを襲うつもりだったんだろ?」
「そうだけど………」
「なら、オレがお前を襲ったって同じじゃないか」
「はぁ?」
ぼくが男を襲う=男がぼくを襲う。同じ………だったっけ?
「君がぼくを襲うって、あれ?」
「君じゃない、ギイだ」
「ギイ?」
「そう」
「って、だから!」
なんでボタンを外されてるんだ?いったい、ギイは、なにをしようとしてるんだ?
ジタバタと暴れるぼくを物ともせずに、ポイポイと服をベッドの下に投げ捨て、
「名前は?」
ギイが、ぼくに聞く。
「な、なに?」
「お前の名前」
「た……託生……」
「託生、託生か」
「や……ギイっ…………う……んっ!」
どこ、触ってるんだよぉ?!
絶対、なにかが違うってば~~~~!
吸血鬼の言うところの「襲う」と人間の言うところの「襲う」とでは、意味合いが全く違うことに気付いたのは、ギイに美味しくいただかれてしまったあと。
でも、血を飲んでもいないのに、なぜか満足している自分に驚きつつ、温かなギイの腕の中で、今まで経験したことがない安心感と、ずっと包み込んでいた孤独感がなくなっているのを感じながら、ぼくは睡魔に身を任せた。
ラベル:BL